白血病からの虹色ライフ

1981年生まれ2児の母。2005年のクリスマスの日 私はこの日「急性前骨髄球性白血病」の診断を受けました。 運命を変えたこの日から今日に至るまでの、死を見つめながらの心の葛藤。そして病気をきっかけとして、病気をしたからこそ強いつながりを持つことができた、家族はじめ周りの方々。そしてなによりも私自身の心の変化を綴っていこうと思います。

入院 その1

会社の友達がお見舞いに来てくれても私は話しをすることができませんでした。なぜなら話しをしようと口をひらくと吐いてしまうんです。ただただうなずく事しかできませんでした。吐き気がひどい為、食事も禁食になりました。年末のテレビはグルメ番組ばかり…禁食の私にはかなりのストレスでした。

 

「禁食が解除になったらあれたべよう…これたべよう…」と旦那と話していました。旦那はちょうど年末休みに入りずっと病室にいてくれました。売店で雑誌を買ってきてくれたり私元気づけようといっぱい話しをしました。「退院したらこの店いこー。これ食べにいこー。」と沢山楽しみをつくってくれました。旦那が私にノートを渡してくれて「食べたいものや行きたい場所があったらそれをノートに書け!」といいわたしてくれました。

 

そーすることで楽しみをつくっていました。それでもやっぱり副作用はひどかったです。私が吐くたびに旦那は吐いた袋をナースステーションにもっていく毎日でした。ステーションでは吐いたものに薬が混ざってないかなどチェックがあったそーです。

私は禁食中、テレビで「これ、おいし~美味しくて死にそ~」などという言葉に毎回「うまいもの食べて死なね~よ…」と言ってました。「テレビ見なきゃいーじゃん。」とも言われましたが、それも嫌だったのです。私はあーでもない、こーでもないって言葉にするだけでストレス発散していたのかもしれません。

 

禁食中、旦那は気をきかせて「ご飯は他にいって食べようか?」と聞いてきましたが、私はコソコソされるのが嫌で「ここで食べていーよ!」といい旦那はいつも普通に隣でご飯を食べていました。私が「ラーメン食べたい。」と言うと旦那は、「いーね!俺ラーメン食べてくるわ!」と言い部屋を出て行きました。

 

私は「おぃ(゜o゜)\(-_-)」と、ツッコミ、ニヤニヤしながら出て行く旦那を幾度となくみました。でも気を使わない旦那で逆に私も楽でした。でもきっと普通に隣で食べていたけど私が「おいしい?おいしい?」と何度も聞いたから食べづらかっただろーな…と思います。

でも嫌な顔一つせずいつもと変わらない態度で居てくれたから 私も平常心でいれたのかもしれません。そんな日々でした。副作用もひどくなり白血球もさがりお腹も下り、熱もでて、体がだるく寝てる頃、上の子が通う保育園のママ友達が千羽鶴を届けてくれたんです。

 

保育園の園児、先生方、ママ友達、皆の気持ちのこもった素晴らしい千羽鶴でした。一生懸命折ってくれたのが伝わるいびつな鶴や綺麗に折られた鶴、様々な鶴がたくさんありました。一つ一つ見て触って、すごく沢山の思いが伝わってきて涙がボロボロこぼれました。

 

本当に本当に嬉しかった。本当に嬉しかった。寝ていても起きていても見える場所にぶら下げました。いつも辛い時、すごくパワーをもらいました。本当にありがとう。ママ友達は付き添いのパパのご飯を届けてくれたり私がCD聞きたいといえばラジカセ買ってくれたり、献血行ってくれたり、会いに来てくれたり。沢山ワガママ聞いてくれました。本当に温かい人達ばっかで、たくさんパワーをもらいました。

 

大切な友達です。ありがとう。私の部屋には毎日、誰かしら友達がきてくれました。私はどんなに具合が 悪くても友達に会うと嘘の様に元気になれました。白血球が下がってるときは皆、気をつかい来なかったけど白血球が上がってくると、土日は入院前と変わらぬ風景のように仲間に囲まれてワイワイしていました。

 

主治医の先生が「青木さんは友達たくさんでいーね。この部屋はいつも宴会みたいだね。大切にしなきゃね。」と言ってくれました。私は病気になったことは生まれ持った運命とおもいました。私の試練と思いました。神様は乗り越えられない試練は与えないと思い私は病気になったこと、闘う事をプラスにしなくてはならないと思いました。

 

それは父、母、応援してくれてる人、待っていてくれる仲間、付き添いを毎日してくれている旦那、そして誰よりも子供達のために私は病気に勝たなくてはならないと強く心に決め病気と真っ正面からぶつかる事にしました。

それから私は自分の病気について調べたり看護師さんに聞いたり、友達にネットで調べてもらったりしました。でも現実は沢山の死亡例やブログの最後は家族の言葉だったり…骨髄移植して元気になった例、幾度となく自分で自分を追い込んでしまっていました。

 

でも私は、移植するわけでもなく化学療法での治療だけで治った例を探していました。でも見つかりませんでした。同じ前骨髄球性白血病(M3)のブログをみつけるのも苦労しました。ほとんど急性骨髄性白血病とかいてあるだけで骨髄性のなかでもM0~M7のどれかまでかいてあるのがほとんどありませんでした。

 

だから私は化学療法だけで元気になったブログを退院したら書きたいと思いました。沢山の目標をたて、退院したあとの楽しみをつくり、乗り越えていくことを決めました。