白血病からの虹色ライフ

1981年生まれ2児の母。2005年のクリスマスの日 私はこの日「急性前骨髄球性白血病」の診断を受けました。 運命を変えたこの日から今日に至るまでの、死を見つめながらの心の葛藤。そして病気をきっかけとして、病気をしたからこそ強いつながりを持つことができた、家族はじめ周りの方々。そしてなによりも私自身の心の変化を綴っていこうと思います。

入院するまで その5

2005年12月26日(月)

骨髄検査後、安静も終り、全体力を使い果たした私は、ぐったりでベットでごろごろしていました。あまりの痛さや不安だったので、“ハァーー、、、、”とため息がたくさん出ました。




しばらくすると、看護婦さんが、私のところにいらして、「青木さんお部屋移ってもらっていいかな?」と言われました。私は、“個室?”と聞いたら、「そう。今度は治療のお部屋に移ってほしいんだ」と言われました。私は、「別に個室ならいいや」と思い、何のためらいもなく部屋を移動しました。そこは、トイレ、シャワー、入口のところに手を洗う所(それも、センサーで水が出る、普通のてを洗う所とは違う手洗い)ベットも横になると横になると天井には大きな空気清浄機。“すげーー部屋だな!!”と思うくらいで、ばかな私は“部屋代は?”と聞き、「この部屋は治療のお部屋だからかからないよ」と看護師さんは言いました。私は特になんの疑いもなく病室にいました。




そして、夕方、検査結果がでたので話があるといわれ、私の父、母、だんなが私のところに来ました。義母さんも来てくれました。子供たちも母に連れられ、病室に来てくれました。私は特に大きな病気だと思っていなかったので、すぐに帰れると思っていました。

病室では、ケロっとしている私とは違い、父と母が不安そうにしていたのを覚えています。




父と母の会話は、父が「何だろうねーー?!」母「うーーん、、、」その繰り返しでした。

私と旦那は、私の“白血病だったりして、、”なんて思ってなかってもないことを言い、

旦那は「大丈夫!」という会話。でも私は思ってもなかったというのはうそで本当はほんの少し「もしかして、、、」なんて不安はありました。しばらくすると、看護師さんが病室にきました。「お父さんとお母さん、ちょっといいですか?¥と病室の外に出て行きました。




私は“何?なんなんだろう、、、”と思い、耳はダンボになり、話を聞いていました。

父が「はい、はい。いえ、いいです」。母が、「はい、一緒でいいです。」と。私はなんのことやらさっぱりわからず、病室に戻ってきた父と母に「何?」と聞くと、「お話を一緒に聞くか、先に、お父さんとお母さんだけ聞くか、って聞かれたけど、一緒でいいでしょ?」ということでした。私は昔から隠し事やこそこそされるのが大嫌いだったので、父と母は私の性格をよく知ってくれているので、そうしてくれたようです。




少しして、看護婦さんに呼ばれ、別の部屋に、私、旦那、父と母で行きました。義母さんに子供たちをお願いしていきました。部屋には、K先生とM先生(研修医)がいました。父と母は先生方の前に座り、私と旦那はK先生の横に座りました。なんだか重い空気が流れていました。そして、K先生が話し始めました。