白血病からの虹色ライフ

1981年生まれ2児の母。2005年のクリスマスの日 私はこの日「急性前骨髄球性白血病」の診断を受けました。 運命を変えたこの日から今日に至るまでの、死を見つめながらの心の葛藤。そして病気をきっかけとして、病気をしたからこそ強いつながりを持つことができた、家族はじめ周りの方々。そしてなによりも私自身の心の変化を綴っていこうと思います。

入院するまで その7

K先生は「少しでも早い方がいいから今からこれからすぐに治療をはじめましょう。」といってきました。私は「はい。」と言ってサインをしました。

私は抗がん剤の準備ができるまでの間にK先生に「発見は早かった方ですか?」と聞きました。

K先生は「早いとは言えないけど遅くもないかな。たださっき言ったように出血が一番こわいの。」私は無言でうなずき、次に「後どの位遅かったら手遅れでしたか?」と聞きました。


K先生は「一日か二日位かな…その辺で倒れていたとおもう。」とまたまた衝撃的なお話…しばらくすると抗がん剤がとどきました。すでに腕には救急外来でしていた点滴のルートがありました。

そして私は告知を受けながら抗がん剤をつながれました。先生の話しは耳に入らず私はただただ毒々しい真っ赤に色づけられた抗がん剤をながめ、「あ~これが抗がん剤なんだ…髪の毛抜けるんだ…でも…がっつり効いて治るといーな…」とも思っていました。


そしてATRAベサノイドも渡されその場でのみました。「治りますように。」と両手で握りお> 願いをしてからのみました。話しも終わり病室へ戻る時、私は次いつ歩けるかわからない病室までの廊下をゆっくりあるいていました。旦那はずっと私の背中をそっと押してくれてました。病室まで旦那は私に「大丈夫…!大丈夫…!ガンバロ…!」と言ってくれていました。


私に言ってくれてるようにも思いましたが自分に言い聞かせているようにも見えました。病室に入り、私は携帯をとり、私は真っ先にある人に電話をしました。その人との出会いは私が高校二年生の頃、私は車が大好きでいつも遊びにいっていた車屋さんの社長。


ロードスター専門のお店で免許をとる前からお店に集まるお客さんや社長さんと楽しい毎日を過ごしていました。憧れの存在でした。私は免許をとってすぐロードスターを買いました。同じ車に乗る仲間と毎日他愛もない話しをして馬鹿しながら過ごしてきました。

社長は普段私がなんだかんだと馬鹿を言っているとサラっと聞き流したり何かいっても冷たかったりするのですが私が相談したりするととても親身に話しを聞いてくれたりとてもためになる話しを してくれます。


私が落ち込んでいたり嫌な事があっても社長のいる店に行き、みんなと話しているととても前向きになれる私にはとても大切な仲間で大切な場所なんです。旦那ともそのお店で知り合いました。そんな私の宝物のお店の社長に真っ先に電話をしました。入院したのはクリスマスに遊ぶ約束をしていた車仲間一家に聞いていたようでしっていました。私は社長の声を聞いた瞬間からはじめて涙がこぼれてきました。


「検査結果でたの…」と私が話しました。社長は「どうだった?」と聞いてきました。私はしばらく自分の口から「白血病」という言葉を言えずただただ泣いていました。旦那は私の手を握っていてくれました。


そして私は社長に「白血病だった…」と告げました。社長は「白血病だったの…白血病か…そっか…………大丈夫なんだろ?」と私は確かに震える社長の声を聞きました。9年間社長とかかわってきてはじめてでした。私は「二週間だって。二週間乗り切れば一番治りやすい白血病だって。私頑張るから。頑張るから。」そう泣きながら言いました。私はその時はじめて悔しい気持ちが込み上げてきました。「なんで私?私が何した?なんで?
なんで?」と自分をせめました。


社長は私のロードスターを私が退院していつでも乗れる様に預かってやると言ってくれました。私はまた皆と走ったりイベントに参加したい。必ず私は皆のとこに戻ると約束しました。この年は大雪で私が入院してから私のロードスターは雪に埋もれ見えなくなっていたそうです。それを私の父と母は毎日雪掻きをしてくれていました。旦那が社長のところへ持って行ってくれました。


社長は毎日雪をおろし大切に大切にしてくれていました。会社の友達同級生、車の仲間にみんなにメールを送信しました。面白い事にほとんどの友達が「嘘だ~まだ4月じゃね~ぞ~!」とか「笑えない冗談だな!」「ありえん!お前は殺しても死なないタイプだから病気なんかならん!!」などなど…見事に私と病気が結びつかなかったようでした。


落ち込んでいたけど笑うしかなかったです。でも段々信じてきて皆言葉に困ったのか…私がイカレタのか理解不能な返事がたくさんありました。報> 告もおわり、まず私ははじめに子供達の写真をベットの横にはりました。ベットから起き上がると見える場所にも子供達の写真をはりました。


私は下の子供を産んでからまだ7ヶ月だったので授乳もピタッとやめさせられ2時間おきに張っていたいオッパイを搾り、捨てていました。搾乳してる自分が情けなく、のませられない自分が情けなく、泣きながら毎日搾乳していました。


本当悔しかった。私は滝のような輸血と抗がん剤をながめながらベットに横になり溜め息ばかりしていました。私は夜が恐かったんです。寝たら起きれないんじゃないかって。そんな私を見ていた旦那は「俺が見てるから安心して寝な。ここに居るから。」と私が寝るまで手を握っていてくれました。


私はウトウトするものの、はっと目が覚め旦那を見ると「大丈夫だよ。」と言ってくれました。旦那の話しでは私は寝ても10分以上はねてなかったそうです。

私達は交換日記をはじめました。でも長くは続けられませんでした。抗がん剤と生理を止めるためにのんだホルモン剤の副作用でひたすら吐き続けたのです。 一日40回以上…私の本当の闘病生活がはじまりました。