白血病からの虹色ライフ

1981年生まれ2児の母。2005年のクリスマスの日 私はこの日「急性前骨髄球性白血病」の診断を受けました。 運命を変えたこの日から今日に至るまでの、死を見つめながらの心の葛藤。そして病気をきっかけとして、病気をしたからこそ強いつながりを持つことができた、家族はじめ周りの方々。そしてなによりも私自身の心の変化を綴っていこうと思います。

出会いと別れ②

7ヶ月の入院の中で、治療の合間、血液データが良いときだけ部屋の外に出れました。

部屋の外といっても病棟の廊下だけ。

でも部屋から出れることだけでも嬉しかった。

何よりも、面会に来てくれた人達をエレベーター前まで一緒に歩いていける事が嬉しかった。

私の病室は一番奥だったので血液内科の病室前を通るとき、同じ様にこの扉の向こうで病気と闘ってる人達がいるんだよな~って思いながら、一部屋一部屋前を通る時には全く知らない人達だけど心のなかで『頑張ってください。頑張ってください。』って言いながら歩いていました。

私の入院は7ヶ月。

看護師さんは

『この病院で一番長い入院あなたが一番長い入院だよ。人工呼吸機つけてる人以外で。血液の病気は長期入院になるけど、入れ替わりも激しい病棟だよね。』

そんな話をしながら歩いてると、自分も病気なのに他の人にも元気になってほしちって気持ちが強くなってたのを鮮明に覚えてます。

翌日、また同じ様に廊下にでて歩いていると昨日まで名前があったはずの部屋が空き部屋になってたり、急変でバタバタしてるのが聞こえたり、夜中に泣き声と叫び声で目が覚めたり…本当に生死がハッキリ見える病棟だなって感じてました。

でも、嫌だな~って感じた事はなくて、これが現実なんだなぁ。。。って感じてました。

生死の分かれ目に自分も居ることをハッキリ自覚すればするほど、私は『生きたい』って気持ちが強くなってた。

おばあちゃんの言葉がしっかりと私の中で残ってたから、私が元気になったら一時帰宅の時にいつもおばあちゃんが食べに行ってたコロッケ定食を私が食べに行ってたやる!!って思ってました。

 

次の治療が始まるまでの数日間、廊下を歩いてると2つ隣の人が偶然出て来て、私に声をかけてくれました。まだ40代位の女性でした。

『もしかして、あなたが若いのに入院してるっていう子???』って。

私が病棟で一番若くして入院してるって前に看護師さんから聞いてたので

『はい。たぶん私の事だと思います。』

と答えると、その女性は私の手を握り

『会いたかったの!!私なんか病気になって滅入っちゃって毎日泣いてばっかで。そんな時に看護師さんが、もっともっと若くてお子さん生まれたばかりなのに入院してきてる人がいて、とても前向きに治療してる女性がいるんですよ。って話を聞いてて本当に会いたかったんだ。』

って話をしてくれました。

ちょうど夕飯の時間だったこともあり、病棟のラウンジで一緒に夕飯を食べることにしました。

その女性は悪性リンパ腫でした。

私は白血病

病気は違うけど、同じ血液の病気です。

家族の事、病気の事、他愛もない話、いろーんな事話していつも

『また明日ね!』ってそれぞれの病室に戻りました。

私は編み物や手芸がとても好きで、いろんな物を作ってて、ラウンジで会ったときに見せたら、その女性も凄く手先が器用で編み物、パッチワーク、ぬいぐるみ等作ってたんです。それから私もいろいろ教えてもらったりと時間の許す限り、その女性と一緒に過ごしてました。

治療に入る時は『お互い頑張ろう!また会える日まで!!』って言って、病室に入りました。

そう。。。治療1回目1回目が命懸けだから。

『次』とか『明日』とか『後で』とか本当に無くて、1日1日が全てで、治療始まったら時の流れに身を任せるだけで、頑張るとかそういうんではなくて、とにかく時間がたつのをまつしかない治療。

抗がん剤の副作用で吐いても吐いても、熱が出ても、輸血で蕁麻疹がでても、苦しくても、痛くても、ツラくても、ただただ時間が過ぎる事だけを待つのが治療で。

今がこんなにツラくても時間がたてば身体が回復してくれると信じるしかなくて、本当にベッドに貼り付けされたみたいに動けなくても、また部屋の外の景色を見る為、子供達の顔を見るために、治療に集中してました。

 

とはいえ、考え込んでも仕方ないので、私は何かしてないとダメな性格なので、ゲーゲー吐きながらも、絵書いたり、物をつくったり、プレステ繋いでボンバーマンしてたりしてました。

気分転換大事です。

病気の事、考えるな!っていうのは難しいけど、考えてもどうにもならないし、ツライ治療だけど、それも全て自分の為だし、結果は付いてくるものだって思ってました。

ツライ治療を乗り越えたから良くなる保証もないけど、やれることはやって、それで結果が悪くても納得できるし、それで結果良かったら喜べるから。

そう思って日々の治療には真っ正面から向き合っていました。

『また会える日まで!』って約束した人に会う為にも。

そんな気持ちで治療してました。

 

出会いと別れ①

入院期間 7ヶ月。

その間にあった出来事で絶対忘れてはいけない出来事をここに残していこうと思います。

 

私の入院した病院には、完全クリーンルームは無くセミクリーンルームでした。

でも、治療中は部屋から一歩も出ることも許されず窓も二重サッシ。

小さな個室でいつ起こるかわからない出血に怯えながらも時が経ち回復してくいくことだけを願ってただただ時間を過ごしてました。

この部屋に入るとき、私は2枚のCDだけを持ってその部屋に入りました。

コブクロの『桜』と『ここにしか咲かない花』

桜は本当にずーーーーーーーーーーーーーっとリピートで何度も何度も聞いてました。

窓の外は真っ白な雪景色。でも私は、春には絶対『桜』をみてやるんだ!!って気持ちで真っ白な世界に桜の木を描いていました。

2週間がヤマだって言われてても死ぬ気はしなかった。

子供達置いて死ぬなんて無責任だって思ってました。

DICものりきり、最初の治療も落ち着いた時、担当の看護師さんが

『会わせたい人がいるんだけど』

って言ってきてくれました。本当ならクリーンルームの往き来は禁止なのですが、私がまだ若く突然の病気に向き合う事が負担だったと思ってくれていて看護師さんは一人のお婆さんに会わせてくれました。

 

看護師『○○さん!この方ですよー』

と紹介され私は驚きました。

この人が病気???って位、元気で凄く素敵なキラキラした笑顔。お婆さんなんて全然感じない位、若々しく素敵な笑顔の人でした。

そのお婆さんは私に

お婆さん『まだ若いのにね~…病気は何?』私『白血病です…』

お婆さん『何で自分が?って思うでしょ?でもね、私はそんな風に思わないの。乗り越えられない試練は神様はあたえないのよ!』

そう笑顔で私にいってくれました。

私『○○さんも白血病ですか?』

と聞くと

お婆さん『私?私はね骨髄異形成症候群からの白血病。もう治らないの!半年って言われたわ。』

その言葉を聞いた瞬間感じたのは

『死を覚悟した人ほど笑顔で強い人は居ない』

その時の私には、笑顔の理由がわかりませんでした。ただただ、死を目の前にして笑顔でいるお婆さんが本当に凄いとおもった。

首からいつもカメラを下げてて病室からの写真や廊下に出れる時には他の所から沢山の写真を撮ってました。

その写真をもって私の部屋に来てくれて一緒に写真をみたり話したり折り紙したりして私も笑顔の時間が増えました。

 

私は『虹』が大好きで虹色の物や絵を描いたりしたときは虹が絶対書いてあったり、とにかく虹が大好きで、そのお婆さんが撮った写真を見せてもらったら…なんと虹の写真ばっかで。

私『わぁ!!!虹好きなんですか?私も大好きなんです!元気もらえるし笑顔になれるし本当大好きなんです!』と伝えると

お婆さんはまたキラキラした笑顔で

『うん!元気もらえるよね、!こっち側の病室からは虹がいっぱいみえるのよ!』と教えてくれました。

そして、長く面会できないので、お婆さんが私に虹の写真を1枚くれました。

本当に嬉しかった。

それからも、お婆さんが一時帰宅したり、外出許可おりてお出掛けしてきたり、そういう時は必ず私の病室にきてくれて、どこに行ってどんな事をしてきて、どんなものを食べてきたのか教えてくれました(o^-^o)そういうお話できるのが本当に嬉しかったんです。

春には一時帰宅の時に桜も見に行けない私に桜の写真を撮ってきてくれて

『これが今年の桜だよ!!』って写真をくれました。本当に嬉しかった~~。

 

そして、お婆さんが退院する事になり、最後に私の部屋にきて

『今度、私がこの病院に戻ってくる時はもうダメな時。でも、あなたが元気になって一緒にお出掛けしたいの。元気になるのを私は見たいの!外で会いましょうね!』って約束しました。

そして、私は必ず外で会えると信じて治療しました。

お婆さんが退院してから1か月後。。。

お婆さんは病院に戻ってきました。。。

私も治療で面会もできず。。。看護師さんに『今日も乗り切れた?』って聞くことしかできず。

私は毎日毎日、虹色の折り紙で何かを作って看護師さんに届けてもらいました。

お婆さんが再入院して3日後、看護師さんが『○○さんが会いたがってるから会いに行く??』

と聞かれ、もちろん会いに行きました。

部屋に入り目にしたのは、キラキラ笑顔のお婆さんではなく、身体も浮腫んで色んな機械に繋がるコードだらけのお婆さんでした。

酸素マスクを外し、私の手をギューッと握り私の目をシッカリ見てくれて、お婆さんは私に言いました。

『私もう痛いの嫌なの。だから、これから眠らせてもらうの。眠る前にあなたと最後に話したかったの。私はこの長い人生、あなたの様な綺麗な目をした人に初めて出会った。あなたは生きるのよ。私の分まで。私がまだ生きたいって思う気持ち、あなたに全部…あげる!私は、あなたに住所も電話番号も教えないわ。あなたには笑ってて欲しいから。本当にありがとう。ありがとう。』

そう私に何度も伝えてくれました。そして、お婆さんは薬で眠りにつきました。

それからも毎日、折り紙を届けてもらい、看護師さんと『今日ものりきれたね。良かった。』って話をしたりしていました。

 

私は元々眠れず毎日、睡眠薬を飲んで寝てたので朝まで目が覚める事はないんですが、何故か目がパッ!と覚めた夜がありました。

時計を見ると夜中の2時半過ぎ。

何故、薬のんで寝てるのに目が覚めたのか不思議で仕方なく、付き添いしてくれてた旦那に声をかけました。

そしたら、旦那も何故か起きてたんです。

『俺も目が覚めた。なんでだろ?』

そんな会話をしていたら、病室の扉があいたんです。見回りの時間でもないのに部屋の扉が。。。

そしたら、看護師さんが入ってきて

『あ。すみません。起こしちゃいましたかね?』って。

私達は『目が覚めたんです…不思議なんですよね…』

と答えると看護師さんは

『たった今、○○さん亡くなったの。ご家族が会ってもらいたいって言ってるんだけど行く??準備できたら迎えにくるね。』そう言われました。

私は旦那に『一緒にいく?』と聞いたら旦那は『俺は、笑顔のままの○○さんでいたい。』って言ってました。

私だけ会いに行きました。

家族の方に何度も何度も『ありがとうございました。本当にありがとうございました。あなたと出会ってから、凄く前向きになって、本当、あなたに会うのを楽しみにしてたのよ。本当にありがとう。』

私はそんなお礼を言われる様な事何もできてないのに。むしろ、私の方がパワーもらってたのに。っていう気持ちでいっぱいでした。

お婆さんの横に行き伝えました。

『本当に出会えて良かった。ありがとうございました。お疲れ様でした。』と…

 

本当に出会えて良かったと思える人でした。

私の中では、今でもカメラを持って走り回ってる姿、キラキラ笑顔、鮮明に覚えてます。

お婆さんに出会えた事に感謝。

お婆さんに出会わせてくれた看護師さんにも感謝です。

 お婆さんから沢山学んだ事がある中で一番感じる事は

『死を覚悟した人ほど強い人は居ない。死を目の前にした人の笑顔は本当にキラキラしてた』

今でもカメラを持って走り回って、看護師さんに『走っちゃダメー』って怒られてるお茶目なお婆さんのまま私の心の中で笑ってくれてます。

 

 

 

 

 

入院 その1

会社の友達がお見舞いに来てくれても私は話しをすることができませんでした。なぜなら話しをしようと口をひらくと吐いてしまうんです。ただただうなずく事しかできませんでした。吐き気がひどい為、食事も禁食になりました。年末のテレビはグルメ番組ばかり…禁食の私にはかなりのストレスでした。

 

「禁食が解除になったらあれたべよう…これたべよう…」と旦那と話していました。旦那はちょうど年末休みに入りずっと病室にいてくれました。売店で雑誌を買ってきてくれたり私元気づけようといっぱい話しをしました。「退院したらこの店いこー。これ食べにいこー。」と沢山楽しみをつくってくれました。旦那が私にノートを渡してくれて「食べたいものや行きたい場所があったらそれをノートに書け!」といいわたしてくれました。

 

そーすることで楽しみをつくっていました。それでもやっぱり副作用はひどかったです。私が吐くたびに旦那は吐いた袋をナースステーションにもっていく毎日でした。ステーションでは吐いたものに薬が混ざってないかなどチェックがあったそーです。

私は禁食中、テレビで「これ、おいし~美味しくて死にそ~」などという言葉に毎回「うまいもの食べて死なね~よ…」と言ってました。「テレビ見なきゃいーじゃん。」とも言われましたが、それも嫌だったのです。私はあーでもない、こーでもないって言葉にするだけでストレス発散していたのかもしれません。

 

禁食中、旦那は気をきかせて「ご飯は他にいって食べようか?」と聞いてきましたが、私はコソコソされるのが嫌で「ここで食べていーよ!」といい旦那はいつも普通に隣でご飯を食べていました。私が「ラーメン食べたい。」と言うと旦那は、「いーね!俺ラーメン食べてくるわ!」と言い部屋を出て行きました。

 

私は「おぃ(゜o゜)\(-_-)」と、ツッコミ、ニヤニヤしながら出て行く旦那を幾度となくみました。でも気を使わない旦那で逆に私も楽でした。でもきっと普通に隣で食べていたけど私が「おいしい?おいしい?」と何度も聞いたから食べづらかっただろーな…と思います。

でも嫌な顔一つせずいつもと変わらない態度で居てくれたから 私も平常心でいれたのかもしれません。そんな日々でした。副作用もひどくなり白血球もさがりお腹も下り、熱もでて、体がだるく寝てる頃、上の子が通う保育園のママ友達が千羽鶴を届けてくれたんです。

 

保育園の園児、先生方、ママ友達、皆の気持ちのこもった素晴らしい千羽鶴でした。一生懸命折ってくれたのが伝わるいびつな鶴や綺麗に折られた鶴、様々な鶴がたくさんありました。一つ一つ見て触って、すごく沢山の思いが伝わってきて涙がボロボロこぼれました。

 

本当に本当に嬉しかった。本当に嬉しかった。寝ていても起きていても見える場所にぶら下げました。いつも辛い時、すごくパワーをもらいました。本当にありがとう。ママ友達は付き添いのパパのご飯を届けてくれたり私がCD聞きたいといえばラジカセ買ってくれたり、献血行ってくれたり、会いに来てくれたり。沢山ワガママ聞いてくれました。本当に温かい人達ばっかで、たくさんパワーをもらいました。

 

大切な友達です。ありがとう。私の部屋には毎日、誰かしら友達がきてくれました。私はどんなに具合が 悪くても友達に会うと嘘の様に元気になれました。白血球が下がってるときは皆、気をつかい来なかったけど白血球が上がってくると、土日は入院前と変わらぬ風景のように仲間に囲まれてワイワイしていました。

 

主治医の先生が「青木さんは友達たくさんでいーね。この部屋はいつも宴会みたいだね。大切にしなきゃね。」と言ってくれました。私は病気になったことは生まれ持った運命とおもいました。私の試練と思いました。神様は乗り越えられない試練は与えないと思い私は病気になったこと、闘う事をプラスにしなくてはならないと思いました。

 

それは父、母、応援してくれてる人、待っていてくれる仲間、付き添いを毎日してくれている旦那、そして誰よりも子供達のために私は病気に勝たなくてはならないと強く心に決め病気と真っ正面からぶつかる事にしました。

それから私は自分の病気について調べたり看護師さんに聞いたり、友達にネットで調べてもらったりしました。でも現実は沢山の死亡例やブログの最後は家族の言葉だったり…骨髄移植して元気になった例、幾度となく自分で自分を追い込んでしまっていました。

 

でも私は、移植するわけでもなく化学療法での治療だけで治った例を探していました。でも見つかりませんでした。同じ前骨髄球性白血病(M3)のブログをみつけるのも苦労しました。ほとんど急性骨髄性白血病とかいてあるだけで骨髄性のなかでもM0~M7のどれかまでかいてあるのがほとんどありませんでした。

 

だから私は化学療法だけで元気になったブログを退院したら書きたいと思いました。沢山の目標をたて、退院したあとの楽しみをつくり、乗り越えていくことを決めました。

入院するまで その7

K先生は「少しでも早い方がいいから今からこれからすぐに治療をはじめましょう。」といってきました。私は「はい。」と言ってサインをしました。

私は抗がん剤の準備ができるまでの間にK先生に「発見は早かった方ですか?」と聞きました。

K先生は「早いとは言えないけど遅くもないかな。たださっき言ったように出血が一番こわいの。」私は無言でうなずき、次に「後どの位遅かったら手遅れでしたか?」と聞きました。


K先生は「一日か二日位かな…その辺で倒れていたとおもう。」とまたまた衝撃的なお話…しばらくすると抗がん剤がとどきました。すでに腕には救急外来でしていた点滴のルートがありました。

そして私は告知を受けながら抗がん剤をつながれました。先生の話しは耳に入らず私はただただ毒々しい真っ赤に色づけられた抗がん剤をながめ、「あ~これが抗がん剤なんだ…髪の毛抜けるんだ…でも…がっつり効いて治るといーな…」とも思っていました。


そしてATRAベサノイドも渡されその場でのみました。「治りますように。」と両手で握りお> 願いをしてからのみました。話しも終わり病室へ戻る時、私は次いつ歩けるかわからない病室までの廊下をゆっくりあるいていました。旦那はずっと私の背中をそっと押してくれてました。病室まで旦那は私に「大丈夫…!大丈夫…!ガンバロ…!」と言ってくれていました。


私に言ってくれてるようにも思いましたが自分に言い聞かせているようにも見えました。病室に入り、私は携帯をとり、私は真っ先にある人に電話をしました。その人との出会いは私が高校二年生の頃、私は車が大好きでいつも遊びにいっていた車屋さんの社長。


ロードスター専門のお店で免許をとる前からお店に集まるお客さんや社長さんと楽しい毎日を過ごしていました。憧れの存在でした。私は免許をとってすぐロードスターを買いました。同じ車に乗る仲間と毎日他愛もない話しをして馬鹿しながら過ごしてきました。

社長は普段私がなんだかんだと馬鹿を言っているとサラっと聞き流したり何かいっても冷たかったりするのですが私が相談したりするととても親身に話しを聞いてくれたりとてもためになる話しを してくれます。


私が落ち込んでいたり嫌な事があっても社長のいる店に行き、みんなと話しているととても前向きになれる私にはとても大切な仲間で大切な場所なんです。旦那ともそのお店で知り合いました。そんな私の宝物のお店の社長に真っ先に電話をしました。入院したのはクリスマスに遊ぶ約束をしていた車仲間一家に聞いていたようでしっていました。私は社長の声を聞いた瞬間からはじめて涙がこぼれてきました。


「検査結果でたの…」と私が話しました。社長は「どうだった?」と聞いてきました。私はしばらく自分の口から「白血病」という言葉を言えずただただ泣いていました。旦那は私の手を握っていてくれました。


そして私は社長に「白血病だった…」と告げました。社長は「白血病だったの…白血病か…そっか…………大丈夫なんだろ?」と私は確かに震える社長の声を聞きました。9年間社長とかかわってきてはじめてでした。私は「二週間だって。二週間乗り切れば一番治りやすい白血病だって。私頑張るから。頑張るから。」そう泣きながら言いました。私はその時はじめて悔しい気持ちが込み上げてきました。「なんで私?私が何した?なんで?
なんで?」と自分をせめました。


社長は私のロードスターを私が退院していつでも乗れる様に預かってやると言ってくれました。私はまた皆と走ったりイベントに参加したい。必ず私は皆のとこに戻ると約束しました。この年は大雪で私が入院してから私のロードスターは雪に埋もれ見えなくなっていたそうです。それを私の父と母は毎日雪掻きをしてくれていました。旦那が社長のところへ持って行ってくれました。


社長は毎日雪をおろし大切に大切にしてくれていました。会社の友達同級生、車の仲間にみんなにメールを送信しました。面白い事にほとんどの友達が「嘘だ~まだ4月じゃね~ぞ~!」とか「笑えない冗談だな!」「ありえん!お前は殺しても死なないタイプだから病気なんかならん!!」などなど…見事に私と病気が結びつかなかったようでした。


落ち込んでいたけど笑うしかなかったです。でも段々信じてきて皆言葉に困ったのか…私がイカレタのか理解不能な返事がたくさんありました。報> 告もおわり、まず私ははじめに子供達の写真をベットの横にはりました。ベットから起き上がると見える場所にも子供達の写真をはりました。


私は下の子供を産んでからまだ7ヶ月だったので授乳もピタッとやめさせられ2時間おきに張っていたいオッパイを搾り、捨てていました。搾乳してる自分が情けなく、のませられない自分が情けなく、泣きながら毎日搾乳していました。


本当悔しかった。私は滝のような輸血と抗がん剤をながめながらベットに横になり溜め息ばかりしていました。私は夜が恐かったんです。寝たら起きれないんじゃないかって。そんな私を見ていた旦那は「俺が見てるから安心して寝な。ここに居るから。」と私が寝るまで手を握っていてくれました。


私はウトウトするものの、はっと目が覚め旦那を見ると「大丈夫だよ。」と言ってくれました。旦那の話しでは私は寝ても10分以上はねてなかったそうです。

私達は交換日記をはじめました。でも長くは続けられませんでした。抗がん剤と生理を止めるためにのんだホルモン剤の副作用でひたすら吐き続けたのです。 一日40回以上…私の本当の闘病生活がはじまりました。

 
 

入院するまで その6

12月26日(月)“告知”

K先生は私に「青木さん、あのね、白血病は嫌だって言ってたんだけど、はっきりいうと白血病なの。」私は全身の血の気が一気に引いていくのがわかりました。そして、告知に立ち会った看護師さんのTさんは「大丈夫だよ。検査してみないとわからないからさ!」といつも言ってくれていました。私に「ごめんね、、、」と言ってくれたのは、検査結果を知っていて、知らないふりをしていたからなのかな、、、。でもそれは仕方ないのに「ごめんね、、、」って。私は別に気にはしていなかったし、看護師さんの仕事だから、、と思っていました。とてもやさしい看護師さんでした。私はK先生の「白血病です」の一言で、私はその後の話は全く覚えていません。“頭が真っ白になるってこういうことなんだ”と思いました。

 

(この先、告知の状況は旦那から聞いたことです。)

私はK先生の言葉の後、すごく深いため息をつき、下を向き、体がとても震えていました。旦那が手を握り、押さえつけても止まらないくらい震えていました。父と母が泣き、K先生の話を聞いていられない状態でした。私は頭の中が真っ白でK先生の話は全く聞こえませんでした。しばらく時間が経ち、少し冷静になってきました。私は子供たちのことがまず一番最初に浮び、「上の子は私が死んだらどうなる、、、下の子はまだ5ヶ月、、、、ママって呼ばれてない、、、呼ばれたい、、、子供たちと離れたくない、、死にたくない、、、」それだけが頭の中を駆け巡っていました。

 

「生きなきゃ!でも白血病は、、、死んじゃう、、、死にたくない、、、死にたくない、、、死んじゃうのかな、、、、。」そんな思いが私の頭の中いっぱいになりました。

涙ひとつでませんでした。あ然とした後、子供たちのこと、死んでしまうのか、、、、という思いで泣く間もありませんでした。私の中で「聞かなきゃ、、治るのか聞かなきゃ!聞かなきゃ!」と思ってはいても、治らないと宣告されたら、、余命宣告されたら、、、という不安がずっしりと心を押しつぶし、とても怖かったのを覚えています。

 

でも子供たちのことを考えると“聞かなきゃ!”と決意し、震える声をしっかり先生に聞こえるように「先生、、、治るんですか?」と聞きました。すると先生は、「白血病の中で一番早期死亡率が高いけど、それを乗り越えれば、一番治る可能性が高い白血病です。」と言われました。「治る!」そう言われた私は、その思った瞬間に、血の気の引いているはずだった私の体の足のつま先から体全体に、熱いパワーというかカッとした熱いものがこみ上げてきたのです。なんと表現していいのかわからないのですが、あれが人間の底知れぬパワーなのかもしれないと感じました。体が熱くなり、その後は死ぬ気がしませんでした。K先生の話を自分で聞くことが出来ました。

 

私の場合は、全身の99%がすでにガン化しているとのことでした。骨髄の写真を見せてくれました。画面びっしりにガン化した未熟な白血病の細胞が写っていました。気持ち悪い位でした。写真を見ても何がどうなのか、白血病をよく知らないので逆に興味が湧いてきました。自分が“病気”という自覚はあまりありませんでした。パソコンの写真を、席を立ち近くに行って旦那と一緒にみました。「へーーすげーーこれがガン細胞なの?!」と聞くとK先生とM先生は「これ全部!」と答えました。

 

「全部!ふーーん。」と旦那と私は言いました。ショックのあまり頭がおかしくなっていたのかもしれません。ケロっとしていましたから。

父と母は泣きっぱなしでした。見ていられませんでした。申し訳ない気持ちでいっぱいでした。父と母より先に死ぬのは、父と母に最大の親不孝だと思っていました。私は小さい頃から、父や母を困らせ、悩ませ、泣かせてきた超親不孝な子供でした。でも自分が病気になり、死と隣り合わせになった私が考えたことは、子供たちを残し、死にたくない!父と母にこれ以上悲しい思いをさせたくない。告知のときはそればかりを考えていました。

 

その後、席に戻り、再びK先生の話を聞きました。「白血病にはM0~M7まであり、青木さんのはM3の急性前骨髄球性白血病です。」この白血病は出血のリスクが高く、早期死亡が多いそうです。その後、先生は言いました。「青木さんの場合、血小板が人の約10分の1しかないのと“播種性汎血管内凝固症候群”DICも引き起こされているので、とても出血しやすい状態です。この急性前骨髄球性白血病には、ATRA(ベサノイド)というすごく良い薬ができて、一番治りにくい白血病から、一番治りやすくなったんです。」と言いました。私は”治る!“という希望がとても大きくなりました。

 

先生は「血小板やFFPの輸血をしながらいきます。ただ、今どこで出血するかわからない状態で、もし、脳や胃や腸や肺で出血が起きてしまったら、止まらないのでどうしようもなくなります。2週間がやまです。2週間を乗り切れば、治る可能性があります。」と先生は言いました。2週間、、、死と隣り合わせ、、、、、。でも私は死ぬ気がしませんでした。

入院するまで その5

2005年12月26日(月)

骨髄検査後、安静も終り、全体力を使い果たした私は、ぐったりでベットでごろごろしていました。あまりの痛さや不安だったので、“ハァーー、、、、”とため息がたくさん出ました。




しばらくすると、看護婦さんが、私のところにいらして、「青木さんお部屋移ってもらっていいかな?」と言われました。私は、“個室?”と聞いたら、「そう。今度は治療のお部屋に移ってほしいんだ」と言われました。私は、「別に個室ならいいや」と思い、何のためらいもなく部屋を移動しました。そこは、トイレ、シャワー、入口のところに手を洗う所(それも、センサーで水が出る、普通のてを洗う所とは違う手洗い)ベットも横になると横になると天井には大きな空気清浄機。“すげーー部屋だな!!”と思うくらいで、ばかな私は“部屋代は?”と聞き、「この部屋は治療のお部屋だからかからないよ」と看護師さんは言いました。私は特になんの疑いもなく病室にいました。




そして、夕方、検査結果がでたので話があるといわれ、私の父、母、だんなが私のところに来ました。義母さんも来てくれました。子供たちも母に連れられ、病室に来てくれました。私は特に大きな病気だと思っていなかったので、すぐに帰れると思っていました。

病室では、ケロっとしている私とは違い、父と母が不安そうにしていたのを覚えています。




父と母の会話は、父が「何だろうねーー?!」母「うーーん、、、」その繰り返しでした。

私と旦那は、私の“白血病だったりして、、”なんて思ってなかってもないことを言い、

旦那は「大丈夫!」という会話。でも私は思ってもなかったというのはうそで本当はほんの少し「もしかして、、、」なんて不安はありました。しばらくすると、看護師さんが病室にきました。「お父さんとお母さん、ちょっといいですか?¥と病室の外に出て行きました。




私は“何?なんなんだろう、、、”と思い、耳はダンボになり、話を聞いていました。

父が「はい、はい。いえ、いいです」。母が、「はい、一緒でいいです。」と。私はなんのことやらさっぱりわからず、病室に戻ってきた父と母に「何?」と聞くと、「お話を一緒に聞くか、先に、お父さんとお母さんだけ聞くか、って聞かれたけど、一緒でいいでしょ?」ということでした。私は昔から隠し事やこそこそされるのが大嫌いだったので、父と母は私の性格をよく知ってくれているので、そうしてくれたようです。




少しして、看護婦さんに呼ばれ、別の部屋に、私、旦那、父と母で行きました。義母さんに子供たちをお願いしていきました。部屋には、K先生とM先生(研修医)がいました。父と母は先生方の前に座り、私と旦那はK先生の横に座りました。なんだか重い空気が流れていました。そして、K先生が話し始めました。